住友史料館


住友史料叢書「月報」

  • 『住友文庫ドイツ医学学位論文目録』の刊行・・・朝治 啓三

 住友家が第一次大戦後にドイツの書店から購入し、増築されたばかりの中之島図書館に寄贈した書籍、雑誌、学位論文は住友文庫の名称で知られ、現在は東大阪の府立中央図書館に所蔵されている。文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業に採択されて設けられた関西大学大阪都市遺産研究センターと、大阪府立中央図書館とが協定を結び、2010年から取り組んできた住友文庫に収められたドイツ医学学位論文の目録作成事業が完成し、2013年から2015年にかけて四分冊の『住友文庫ドイツ医学学位論文目録』を刊行することが出来た。関西大学大阪都市遺産研究センターは五年の期限付き事業のため2014年度末に一旦閉鎖され、2016年度からは関西大学の附置施設として名称を変え、そこでは住友関係の研究活動は全くなされていない。センターが閉じられる前に、センターと図書館との合意に基づき、目録作成に使用したデータ一式を大阪府立中央図書館に寄贈した。図書館はそのデータをもとに、デジタル版の蔵書目録を「おおさかeコレクション」の一つとして作成し、2016年7月から一般公開した。


 学位論文そのものは書庫に保存されており、一般公開はされていないので、現時点では閲覧希望者が論文を手に取って見ることはできない。データ化されたのは、著者名、論文タイトル、授与した大学名、診療科名、授与年、出版社、出版地などであるが、著者の経歴や出身地、現職などが判明する場合には「著者属性」としてデータに付記した。これによって医学者や医学史研究者だけではなく、歴史研究者にとっても研究史料となり得る可能性が出てきた。たとえば、ヴュルツブルク大学で医学学位を取得した日本人のうち一四名の論文がこの住友文庫に収蔵されていること、あるいは、ロシア出身のユダヤ人医学者がベルリン大学で医学学位を取得している例が多いことなどである。一九世紀末時点ではドイツ語圏であったケーニヒスベルク(現在はロシアのカリーニングラード)やドルパート(現在はエストニアのタルトゥ)、さらにはスイスの大学の医学学位論文も含まれている。政治史と突き合わせると、これまでとは違う歴史像が描けそうである(拙稿『大阪都市遺産研究』二)。


 藤本和貴夫大阪大学名誉教授から「住友文庫」の存在をお聞きし筆者が府立図書館を訪れたのは2010年8月のことであった。司書の説明と実物の閲覧を通じて文庫の重要性を感じ取り、関西大学大阪都市遺産研究センター長の藪田貫教授に住友文庫研究を提案した。同時にその書物類をドイツで選書した田丸節郎氏のご子息である田丸謙二氏が御尊父のご業績について『化学史研究』二二巻に書かれた文章を読み、ご本人に父君の住友文庫選書についての経緯を伺う便りを差し上げた。藪田教授からは賛同を得ることができ、岡田重信府立図書館長に目録作成のための書庫内作業の許可を申請し、許可された。一方田丸氏からは、住友文庫については初耳であるとの回答が届いた。


 書庫内立ち入りを許可された際、学位論文と学術パンフレット類が大量に未整理のまま、購入以後公開されていないことを知らされた。後藤邦夫、松永俊夫、坂本賢三教授による刊行書と雑誌についての報告論文は図書館紀要に掲載されているが、学位論文とパンフレット類は登録されず番号も振られず、公開されて来なかった。何よりも学位論文についてはまったく手つかずの状態で内容概観報告さえなされていなかった。研究分野は医学、工学、理学、農学、薬学などほとんどが理科系の研究論文である。府立図書館司書森中和子の分類では理化学26,000冊、薬学・医学・衛生が17,000冊である。


 研究期間内での完成を目指すため、医学学位論文の目録を作成することで図書館との合意が形成され、文書を交わした。関西大学の院生数名の協力を得て書庫内でデータ入力を行い、その後ベルリンの州立図書館所蔵の学位論文との照合のために三度渡独し、国内でも医学史家やドイツからの留学生の協力を得て点検作業を行って、2015年1月に四部からなる目録を刊行し終えた。ドイツで学位を授与された論文のうち、一九世紀後半から第一次大戦末までの学位論文のすべてではないが、国内の図書館の中では最もまとまった量を住友文庫は所蔵している。ベルリンの図書館には見つからず住友文庫にのみ所蔵されている論文も僅かながら存在する。


 1988年、森中和子氏は神戸・東灘にあった住友修史室での調査に基づき、住友家がこの文庫を購入した経緯を次のように述べている。第一次大戦後のドイツにおいて学者戦死などにより売りに出された書籍類を、理化学研究所に収めるべく田丸節郎博士が渡独され、選書後、その購入資金を求めて三菱や住友と交渉した。当時外遊中の住友家総理事鈴木馬左也氏に持ちかけたところ、氏は直ちに住友家家長に連絡を取られ巨金を投じての購入を決断されたと(『大阪府立図書館紀要』二四)。


 この説明では不十分だと感じた筆者は住友史料館に、より詳しい経緯と証拠となる史料の開示を求める質問状を呈上した。その回答によれば、住友家の湯川理事から鈴木総理事宛ての1919年10月16日付の手紙に、田丸氏から湯川理事に対し書籍の購入依頼があったこと、また、田丸氏が、将来日本の化学工業の中心たるべき大阪にも科学技術書を備えおくことが工業界の為にも裨益すると考えた、という内容が述べられているとのことである。また竹原文雄氏の論考(『住友修史室報』一三)には、田丸氏との接触については、鈴木氏が硫安のアンモニア合成法の発明に関連してフリッツ・ハーバー教授との仲介を求めて、教授の薫陶を受けたことのある田丸氏に会ったのではないかとの示唆が記されている。田丸謙二氏も、節郎氏とハーバー教授との密接な師弟関係を近稿(『化学と工業』六五|七)において力説されている。


 しかしそれでも不思議なことに、節郎氏はその後自らが仲介された住友文庫について家族にも語らず、来阪し自ら利用したという形跡もない。仮に専門性の高い書籍や学位論文が大阪にあったとしても、それを利用できる能力者が居なければ、その存在意義は減じられてしまうのでは、という点についての明確な説明がこれまでの研究にはない。1923年に中之島図書館新館に収められてから、公開された住友文庫のドイツ語書籍類は利用された形跡があるが、登録されず分類番号さえ振られなかった学位論文は、その後2010年まで書庫に眠ることになった。


(関西大学文学部教授)
住友史料叢書「月報」31号 [2016年12月15日刊行] 
※執筆者の役職は刊行時のものです。