住友史料館


住友史料叢書「月報」

  • 「Bonk貨について」・・・横山 伊徳

 日本(棹)銅の入手は、オランダ東インド会社にとって死活問題であった。しかし当初、それはインド亜大陸の銅需要に応えるためであり、会社は対価として綿布等同地産品を入手したと理解されている。日本の対外交易の前提には、たとえば細織のインド綿織物の桟留の輸出といったアジア域内交易対流が動いていた。

 しかし日本側は、18世紀後半にあっては、銀を欲していた。輸入銀貨から南鐐(良質の)弐朱銀を発行する。匁建ての銀に、「以南鐐八片換小判一兩」という刻印を押し、金建てに組み込むのである。まず中国貿易では、中国物産(茶)を求め中国に流入するスペイン銀貨を輸入する20年契約を結び(1764年)、日本は弐朱銀の原料を確保した。オランダの場合も銀貨輸入契約が実現した(69年)。後にこの事実を知る商館長メイランは、「Zonderlinge loop van den handel!」(貿易の奇妙な経緯よ!日蘭交渉史研究会訳)と述べ、『黄金の国』からの移り変わりに驚嘆した。

 問題は20年後の84年である。83年に米独立戦争が終わり、それに巻きこまれた第四次英蘭戦争は84年オランダの敗北となった。戦時税の色合の強かったイギリスの茶関税が引き下げられ、オランダは中国茶輸入競争にも敗れ、経済的にも行き詰まっていった。日本ではこの間、銅山の開発や大坂長崎銅会所などの整備がなされるが、国内経済発展に対応する銅需要に振り向けたため、輸出銅増大には至らなかった(今井典子氏『近世日本の銅と大坂銅商人』2015)。長崎会所による俵物集荷が開始する(85年)。オランダは俵物を銅代物とすることはできず、商館長は長崎奉行が有利な銅輸出条件を約束したと主張したが、後任者間では水かけ論が長引いた。

 この80年代に大問題が二つ起こった。大湧水による別子銅山での減産と、フランス革命(とその対外戦争化)である。前者は半減商売令を生み、後者は小型の中立国傭船を長崎に引き寄せた。悪夢の90年代となった。日本銅のオランダ東インドでもつ意味も大きな変化を迎えた。

 まず、本国と東インドとの安全航路の喪失、インド洋におけるオランダ貿易の拠点の喪失である(95年)。結果、本国やインド商品の入手は困難となった。インドルピー銀貨やオランダ本国銅貨の供給は激減し、VOC解散時(99年12月31日特許状失効)に東インドは深刻な通貨不足となった。ジャワで日本棹銅を銅貨に加工することが決まった。しかし、東インドの銅貨鋳造施設は貧弱で、一日500枚の製造能力しかなかった。そこで棹銅を剪断し「2スタィフェル」の打刻を行い、臨時通貨ボンクとした。1日5ピコル分が製造された(VOC時代にスリランカでの銅貨不足対策としてとられた方法とされる)。99年は2500ピコルの日本銅が八角ないしは四角のボンク貨に加工された。銅がなくなれば作業は中断し、翌年11月に長崎帰還船を待って作業は再開された。ボンク貨が足らなくなると「すべて日常品を買うためのお金は流通させてはならない」とされた。この禁令は帰還船到着まで有効だった。1803年銅が高くなると、ボンク貨は軽くなり、1000ピコルで8スタイフェルのボンク貨が395,200枚作られた。翌04年本国からドイト貨が到着する(アミアン和平)と、ボンク貨製造を中止しようとした。しかし和平は続かずボンク貨作りは続いた。日本棹銅は、東インド通貨体制を成り立たせていたのである。中立国傭船期しばしば見られた(オランダ)船未着は致命的だった。紙幣発行も試みられたが、兵士は銅貨を欲した。

 11年から16年のイギリスジャワ占領により、ベンガルからルピー銀貨が導入され、銅貨鋳造量も増大した。このドイト貨幣では足らず、13年からジャワルピーが鋳造され、割高な銅を使うボンク貨製造は中止となった。13・14年とイギリスが輸入した日本銅はイギリス製銅貨となった。これらにより、ジャワでの通貨は安定に向かったが、ウィーン体制により同地はオランダに返還される。17・18年の日本銅4,000ピコルを使って、ボンク貨製造が再開するが、同時にドイト貨も日本銅で作られ始めた。すなわち18年臨時通貨ボンク貨の製造は終了となる。


18年製ボンク貨
(出典:Encyclopedie van Munten en Papiergeld)

18年が19世紀型日蘭通商再構築の起点であることと符合する。ネット上でよく知られたボンク貨の写真は、まさにその18年製ボンク貨である。その後銅輸入量としても本国経由の方が勝り、政庁貿易(本方貿易)Gouvernementshandel品として日本銅を確保する動機付けが東インド政庁の中に薄れ、個人貿易として銅を取引する方が儲かるのではないかという意見も生まれていたらしい。この時期、石田千尋氏が指摘するように個人貿易もくせ者(請負化)だが、近世日蘭貿易はペリーとハリスにより突然壊れたものではないと考えられよう。

(東京大学名誉教授)
住友史料叢書「月報」36号 [2021年12月20日刊行] 
※執筆者の役職は刊行時のものです。