今日、住友の事業精神は住友グループ各社の経営理念に活かされ、住友の事業精神を具現化した四阪島製錬所は別子山の植林と共にCSR活動において活用されている。その四阪島には、製錬所が操業を開始した翌年の明治39年(1906)に住友家第15代当主友純(ともいと)の命により建設された住友家の別邸があった。「日暮別邸」と称し、ここからは製錬所が一望でき、煙害克服に対する当主としての強い関心がうかがわれた。築後110年余りの歳月を経て、老朽化が著しいことから、住友グループ20社が協力して新居浜に移築し、今年(平成30年)11月に「日暮別邸記念館」として一般公開を開始した。南に別子銅山、北に四阪島を望む高台に建ち、四阪島の歴史を多くの方へ伝えていくことが期待される。
四阪島製錬所は数多くの教えを私たちに遺したが、中でも、煙害克服のために展開した技術開発の取り組みに私は感銘を受ける。新居浜から20キロ離れた瀬戸内海の燧灘に浮かぶ無人島「四阪島」に製錬所を移転すれば煙害は解消できると誰もが信じて、巨額の費用を投じて四阪島製錬所建設の大プロジェクトを推進した。しかしながら、明治38年、操業を開始すると、その意に反して、より広範囲にわたって亜硫酸ガスによる煙害が発生した。新居浜に製錬所があった当時はまだ新居浜付近に留まっていた煙害は宇摩、新居、周桑、越智四郡にまで拡大した。まさに青天の霹靂であったろう。銅を生産すればよいはずだった四阪島製錬所は新たに煙害克服という大きな課題を抱えて苦難の道を歩むことになったのである。
住友はこの問題の本質的な解決を求めて、操業開始以来35年間にわたって技術開発を積み重ね、煙害を完全に解決した。そこには、達成に導いた幾つかの重要な要因があったと思う。
その一つは、四阪島への製錬所移転は煙害を解消するという目的は達成できなかったが、亜硫酸ガスによる煙害は拡散希釈による方式では解消できないという大きな知見を得たことである。これにより、煙害解消のためには排ガス中の硫黄を回収するしかなく、開発の方向性が絞られた。
次が経営哲学である。経営トップが「煙害は賠償ではなく、技術を以て解決する」と明確な方針を打ち出したことが技術陣のモチベーションを高め、支えたと思う。
そして、技術陣が世界で開発された技術に着目して、これの導入に積極果敢に挑戦したことである。大正2年(1913)には、住友肥料製造所(現、住友化学(株))を設立して原料中の硫黄を下げることにより亜硫酸ガスの排出量を減少させる対策を打った。そして、昭和4年(1929)にペテルゼン式硫酸工場を建設した。世界ではパイロットプラントしか動いていなかったこの時期に三番目の試験工場を四阪島製錬所に導入したのである。さらに、昭和14年、当時世界でも例のない中和工場を建設し、亜硫酸ガスによる煙害問題に終止符を打った。
この時の喜びは想像するに余りある。渡辺吾一(住友別子鉱山技師長)はこの感激を〝頂上大煙突は眠れるが如く黙々動かず、煙害克服の血涙史を刻む記念塔の如く中天高く聳ゆるのみ……〟と記している。
水の出ない土地で不便な生活を強いられ、時には亜硫酸ガスの被害を自ら受けながら煙害克服に粘り強く取り組んだ先人たちとその家族に畏敬の念を抱かずにはいられない。
煙害を克服した翌年の昭和15年、第16代家長住友吉左衞門友成は四阪島を訪問し、煙害問題の完全解決を喜んで次のように詠んだ。
亜硫酸吐きし煙の無くなりて
島はよみがへる人も草木も
まだまだ技術開発は続く。百田諒吉(のち専務取締役)は銅精鉱(粉状)に熱をかけると固まることにヒントを得て精鉱直投吹製錬法を発明し、昭和29年にこの方法を熔鉱炉に採用した。これにより製錬工程の排ガスはすべて硫酸工場に導入されるようになり、コストのかかる中和工場は廃止した。こうして、存亡の危機にあった日本の銅製錬はこの先も存続できる基盤が構築されたのである。
四阪島の歴史は〝煙害克服の血闘史〟と云われるが、そこから、ものづくりにおける技術開発とそれを推進する人材の重要性を読み取ることができる。
1960年代に入ると日本経済の高度成長を背景に銅の需要は著しく増加した。これに応えるため、昭和44年5月、当社は四阪島製錬所に代えて、国際競争力を備えた最新鋭の製錬所を新居浜市磯浦・西条市船屋地区に建設することを決定した。新製錬所は「東予製錬所」と称し、銅鉱石を熔かす炉は熔鉱炉に代えて、世界の銅製錬において主流になりつつあった自熔炉を採用した。
かつての煙害が再び新居浜・西条に戻って来るという地域社会の懸念の中で、建設費110億円のうち約28億円を公害防止設備に投じて、公害のない最新鋭の銅製錬所の建設を目指した。亜硫酸ガスによる公害防止については、大気汚染防止法で拡散理論に基づくK値規制が行われていたが、設計を担当した初代工場長の小椋常和(のち常務取締役)は四阪島製錬所の実績から高煙突による拡散希釈法は取らず、排出する亜硫酸ガスの絶対量を極力少なくする方策を取った。その後、小椋の予見通り、公害防止の世論の高まりを背景に次々とK値規制は厳しくなったが、東予製錬所はこれに問題なく対応することができた。
東予製錬所は計画通り竣工し、昭和46年2月18日火入れ式を行った。火入れ式に用いた火は、その年の元旦に大鉑式(おおばくしき)で供えられた大鉑(前年坑内で採掘された最も品位の高い鉱石)を四阪島製錬所に運び、熔鉱炉で熔かした火をカンテラにて東予製錬所に運んだ。そして、火入れ式当日、神事ののちカンテラからトーチに移された火が、河上健次郎社長によって自熔炉バーナーに点火された。
かくして、元禄に始まった別子の火は四阪島製錬所を経て東予製錬所に引き継がれたのである。
(住友金属鉱山株式会社名誉顧問)
住友史料叢書「月報」33号 [2018年12月15日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。