住友史料館


住友史料叢書「月報」

  • 「シーボルト、ポンペの見た日本の棹銅」・・・大沢眞澄

 江戸時代後期1823年8月12日、長崎のオランダ商館医官としてドイツ人シーボルトが来日した。彼の日本における活動は周知の通りである。彼の日本についての著作には『NIPPON』を始めとして、『Fauna Japonica』、『Flora Japonica』がある。ところで本草学の観点からみれば、動物、植物の次には鉱物が来るが、シーボルトの『日本鉱物誌』はない。しかし彼の諸著作にはビュルガー(助手として1825年8年6日来日。薬剤官。シーボルトの後継者、共同研究者)による鉱物収集が記されるなど、鉱物類を集めていたことは明らかである。


 1982年2月文部省在外研究員としてライデンに向かった。シーボルトの鉱物関係資料の存在については当時大阪大学の芝哲夫先生から伺っていたが、詳細は不明であった。最初に訪問したのがライデン国立地質学鉱物学博物館(RGM)であった。街の真ん中にあるブルフト(要塞)の下にあり、わりと小規模な目立たない建物で、200年前の絵と比べてもほとんど同じ様相であった。近くにはシーボルトの共同研究者で、世界初の日本学教授となったライデン大学のJ・J・ホフマン、日本人留学生津田真道がかつて住んでいた場所もある。RGMはその後に当時の国立自然史博物館(ジャワ原人の資料などあり)に吸収合併され、現在はさらに大きな国立自然史博物館ナチュラリスの一部となっている。その後訪ねてみたが廃墟に近いような感じとなっていた。


 受付でシーボルトについて調べたいというと広い部屋に案内された。そこには紙の小箱に入った鉱物が机上にたくさん並べられてあった。そしてこれらがシーボルトの日本産鉱物のコレクションだといわれたのである。吃驚仰天した次第であった。聞けば研究員のファン・デア・ウェーゲン(G.van der Wegen)氏が収蔵資料調査の一環として、シーボルト・コレクションの整理・同定などを行っている最中であった。彼は変成岩専門で、日本語は読めない。今まで日本から来てこれら資料類を見た人はおらず、あまりの偶然に驚嘆したのであった。翌日からは通用門から入り、4カ月近く調査に加わることになった。見ず知らずの人を同等に扱う許容さにも感心した。


 鉱物の入った紙製小標本箱(資料が複数の場合も多い)は約700個あり、標本の実数はかなり多くなる。標本の種類としては岩石が多く、鉱物・岩石の種別は約100種にも及ぶ(同一種で複数資料あり)。標本はサハリンから琉球にわたり(門下生による)、江戸時代の鉱物コレクションとしては質・量ともに最高といえよう。


 その中に表面に凹凸のある赤い棒状の金属があった。標本番号329263(ウェーゲン氏による)、長さ10.7センチ、断面は丸味を帯びた台形で、高さ1.7センチ、底辺2.5センチ。一端が折れた様相を示し、保存状態は良好であった。添付のラベルはなく、“Native copper,product of smelter”と記載された。はじめは鉱物の中に何でこんなものがと訝ったが、その後棹銅の破片と判明した。


 シーボルトは江戸参府の帰途、大坂に滞在し、1826年6月11日泉屋銅吹所を訪れ製銅法を見学し、銅鉱石・棹銅・『鼓銅図録』などを貰っている。この件に関する住友側の記録も存在する。『鼓銅図録』には「棹吹の圖」があり、その製法が示されている。また棹箱の図もあり、二人掛かりで大きな天秤で量っている図も載せられている。


 帰国後、シーボルトの鉱物コレクションについて日本科学史学会年会(1983年)で報告した。その際、土井正民先生(広島大)から多くのご教示をいただいた。先生は以前住友につとめておられた由で、この棹銅は泉屋のものに相違ないことや、稿本「Geologie:Meteorol.」(1827年)を翻刻され、「シーボルト日本鉱物誌」(後閑文之助・土井正民)と題し、タイプ印書された貴重な二部のうちの一部をお貸しくださった。この書には日本の地質・鉱物のほか、温泉水分析、鉱物学の現状、日本の銅生産(Saofukidoへの言及あり)などの論文が含まれている。


 シーボルトの棹銅標本は非常に保存状態が良く、棹銅表層の赤色は酸化銅(I)である(村上隆氏)ことも認められると思う。これに対して日本の出島の調査で出土した棹銅資料はすべて劣化し、緑青(塩基性炭酸銅)で覆われている。


 シーボルト・コレクションの調査中、ばらばらになったラベルにポンぺの名が認められた。収蔵庫にポンぺ収集の鉱物・岩石資料があり、それらをまとめた標本収納用木箱7個が存在していた(ポンぺの鉱物コレクションはほとんど知られていない)。その中にも保存状態の良い赤い棹銅片があったのである。残念なことにその年の夏に棹銅2本を含む14標本のみを残して、他は廃棄されてしまった。私の撮影した各箱ごとの全体写真は今では貴重なものになったと考えている。現在でも当時の棹銅資料の存在はそう多くないので、シーボルト、ポンぺの場合のように出自が明白なものの評価は高いのではないかと思考する。


(東京学芸大学名誉教授)
住友史料叢書「月報」33号 [2018年12月15日刊行] 
※執筆者の役職は刊行時のものです。