住友史料館


住友史料叢書「月報」

  • 「事業は人なり-住友に受け継がれる精神」・・・佐藤 義雄

 住友グループの歴史を振り返るとき、広瀬宰平、伊庭貞剛といった卓越した指導者の名が挙げられることが多い。彼らの先見性と決断力が住友の発展に寄与したことは全くもって疑いない。しかし、四百年にわたって住友の事業を支えてきた真の原動力は、名もなき数十万人、いや数百万人の従業員一人ひとりの努力と献身であったと私は考えている。


 「事業は人なり」。住友が創業以来受け継いできたこの精神こそ、時代を越えて揺らぐことのない普遍の価値であり、今日の住友連系各社の根幹を形づくる理念である。


 別子銅山の遺構を訪れ、深い森に包まれた静寂に満ちたその山中に立つと、森の奥から無数の人々の気配が静かに語りかけてくるように感じられる。往時には数千人の人々がここで生活し、銅の産出を支えていた。坑内作業は危険と隣り合わせでありながら、誰もが与えられた職務を遂行し、家族とともに山中での生活を営んでいた。女性や子どもまでもがそれぞれの役割を担い、厳しい自然の中で日々を送りながら、未来へ技術と知恵を継承してきたのである。現在は草木に覆われた静謐な空間となっているが、かつての営みを想像すると、胸に迫るものがある。人々が誠実に働き、互いを支え合いながら事業を形づくってきた歴史が、そこには確かに息づいている。


 特筆すべきは、その深い山中に、学校、病院、劇場などの娯楽施設や醸造所まで整えられていたという事実である。山奥の鉱山とは思えないほど文化的な設備が揃い、当時の従業員とその家族の生活を支えていた。これらは単なる福利厚生ではなく、「従業員の幸福なくして事業の発展なし」という住友の精神の体現と言えよう。厳しい環境にあるからこそ、人々が心身の健康を保ち、文化に触れ、憩い、心を通わせる場が必要であるという信念、すなわちウェルビーイングの考え方が、住友の経営には深く根付いていた。従業員を単なる労働力としてではなく、一人の人間として尊重する姿勢が、百年以上前から実践されていたのである。今日の目で見ても先進的と言える考え方が、すでに当時の住友に存在していたことに驚嘆を禁じ得ない。


 この「人を尊ぶ文化」は、現代においても脈々と受け継がれている。その最たる例が、毎年の祠堂祭である。住友家の法要でありながら、グループ各社の経営者のみならず、連系各社の物故者を丁寧に祀る儀式として長く続けられている。単に経営者の功績を称えるのみならず、住友の事業に携わった無数の従業員に思いを寄せ、その労苦と献身に深く感謝を捧げる場となっているのである。祠堂祭に参列するたびに、住友という組織がいかに「人」を中心に据えて事業を進めてきたかをあらためて痛感させられる。企業グループが自らの歴史をこれほど真摯に振り返り、物故者への敬意を欠かさない例は決して多くはないであろう。


 今日、企業経営において人的資本経営やダイバーシティ&インクルージョンへの取り組みは不可欠となっており、多様な人材の力を引き出し、組織の創造性を高めることが求められている。しかし、住友グループはその根底にある「人の尊重」「多様性の受容」「長期視点の人材育成」といった本質を、実は遥か昔から大切にしてきた。住友の事業精神は、短期的利益ではなく、従業員を含む多様なステークホルダーとの長期的な信頼と共存共栄を重んじるものであり、そのためには人を育て活かす経営は必然の帰結であったと言える。住友の歴史はまさに人的資本を重視し、多様な人が協働して価値を生み出してきた軌跡そのものである。


 時代が移り変わり、技術革新が進み、働き方も大きく変容している。しかし、企業の基盤を成すのは「人」であるという事実は不変である。住友が四百年にわたり事業を継続し得たのは、常に人を尊重し、現場で働く一人ひとりのウェルビーイングを大切にしてきたからに他ならない。これこそが、住友連系の最大の強みであると私は感じている。


 名もなき無数の人々が紡いできた歴史の延長線上に、私たちの未来がある。我々は先人たちが築いてきた尊い歴史を胸に、新たな価値を創出し続ける責務を果たしていかなければならない。住友の歩みは、常に「人」とともにあった。これからもその精神を揺るぎなく守り育てていくことこそが、住友の未来を開く鍵となるであろう。

(住友生命保険相互会社特別顧問)
住友史料叢書「月報」38号 [2025年12月20日刊行] 
※執筆者の役職は刊行時のものです。