住友史料館


住友史料叢書「月報」

  • 「外資の住友事業精神への共感」・・・矢 野  薫

 日本初の外資系企業NEC日本電気は1899年に米国WE社の子会社として電話通信機器の国産化を目指して岩垂邦彦により設立された。ここでは、そのNECがいかにして住友グループの一員となり、住友の事業精神を基軸に事業を経営してきたかを記してみたい。

 NECは通信機の輸入販売から事業を始め、電話機の国産化に進み、その後徐々にその製品の範囲を広げた。1913年にはWE社から技術導入した鉛被紙ケーブルの生産を開始し、電線専業3社(住友、古河、藤倉)に並んでいた。WE社の海外統括会社IWE社は電線事業拡大のため日米合弁の電線製造会社を設立したいと希望していた。一方、岩垂は力の分散を避けるため、通信機事業に専念すべきと考え、IWE社に合弁相手として住友電線製造所を紹介した。交渉の結果、1920年にNECはケーブル類の事業、技術をすべて住友電線に譲渡し、NECは住友電線の25%、住友電線はNECの5%の株式を相互に持ち合うこととなった。

 1925年にIWE社はITT社に買収されISE社となったが、住友の「浮利を追わず」の事業精神に共感して、1932年外資系ゆえに経営が厳しくなっていたNECの経営を住友合資会社に委託することとした。住友合資会社はNECの持ち株比率を5%から14%に高めるとともに、主要な人事権を掌握し、NECの社内方針決定の最終責任を持つことになった。さらに、戦時経済下での事業拡大に伴った増資の中で、ISE社の持株比率は低下し、住友の持株比率は46%まで拡大した。1943年にはNECは住友の連系会社に指定され、社名も住友通信工業株式会社となり、連系会社の中でも重要な地位を占めるに至った。ただ、その生い立ちからも、旧来の連系会社とは少し違って、本社の言うことを素直には聞かないという側面もあったようである。

 戦後になって、財閥が解体されるとNECも社名を日本電気に復帰したが、社長は佐伯長生、渡辺斌衡と住友出身者が担い、特に渡辺は17年間社長の地位にあって戦後の混乱期を乗り切りNEC発展の基礎固めを行った。労働争議多発の中で、住友で最も労働問題に詳しい佐伯、渡辺の努力で平和裡に労使協調が行われ、速やかに再建に注力することができたことは特筆されよう。渡辺社長は技術力堅持、輸出振興で事業を拡大し、通信機専業メーカーを総合電子メーカーへと変貌させた。NECは戦前から独自の技術開発に力を注ぎ、人材の確保に努めて、優れた通信技術を蓄積していた。NECはこの技術を生かして、戦後の復興から高度成長の時期に、ラジオ、テレビの通信・放送装置、受信機の開発で大きく躍進した。

 NECはここで培った半導体技術をベースにしてコンピュータの開発にも力を注いだ。1958年にはパリの展示会で世界初の全トランジスタ式デジタル電子計算機を実働させ、世界を驚かせた。NECは戦前からアジアを中心に海外事業にも取り組んできたが、戦後10年が経つころから通信機、放送機の輸出に尽力した。ここでは住友商事や住友銀行などの支援を受けることができたことが大きく貢献した。1960年代半ばには通信にもデジタル化の波が押し寄せ、NECは世界のトップメーカーとして技術開発を牽引した。1977年には小林宏治社長がアトランタでの「インターコム77」のセミナーでC&Cという新しい構想を世界に向けて提示した。この流れの中でNECは1976年にパソコンを発売し、ソリューション事業に重点を置いて、その後のインターネットの時代の基盤を作った。

 NECでは創立100周年を目前にした1998年に防衛庁調達本部背任事件が発覚し、コンプライアンスの強化に全社を挙げて取り組むことになった。住友の営業の要旨「浮利に趨り軽進すべからず」を骨身に染みるほど思い知らされた事件であった。NECはこれを機会にあらゆる改革を行ったが、その一つがガバナンス改革であり、その中核にあったのが取締役改革であった。かつて40名もいた取締役を11名に縮小し、そのうち5名を社外取締役とし、非常時のご意見番から日常の業務の監督、助言へと大きく役割を変えた。社外取締役、社外監査役には住友グループからも入ってもらい、伝統の住友の事業精神に照らした経営への意見をもらった。この活発な取締役会が執行部に規律を与え、大きな変化を強いられていたNECの経営を支えたのである。

 また、この事件はNECにとって高度成長期から続いた全方位拡大路線を改め、バブル崩壊後の環境下での事業の選択と集中への変革を目指す厳しい道のりの始まりであった。特に半導体事業はNECのシステム事業の競争力を支える根幹の事業として、大きな投資を続けてきたがその限界が見えていた。NECは事業の抜本的な立て直しのため、三菱電機、日立製作所の半導体部門との合併を決定した。このNECの決断は住友の総理事伊庭貞剛の残した言葉に支えられて実行された。伊庭はその事業方針として「住友の事業は、住友自身を利するとともに、国家を利し、かつ社会を利する底の事業でなければならぬ」と述べた。さらに、「日本のためになる事業で、しかも住友だけの資本で達成できない大事業ならば住友自体を放下し、日本中の大資本家と合同すべし」とも説いていた。NECの半導体事業はまさに日本のためになるが、NECだけでは達成できないものとなっていたのである。

 NECは2013年に、業績の低迷から脱し、より良い社会の実現に貢献するために、社会価値創造型企業への変革を宣言した。自社の成長と社会の持続的発展を、「自利利他、公私一如」の精神で実現することを会社の目的としたのである。そしてその翌年、新たな企業ブランドメッセージとして「Orchestrating a brighter world」を策定した。ここには「NECは、安全・安心・公平・効率という社会価値を創造し、誰もが人間性を十分に発揮できる持続可能な社会の実現を目指す」という決意が示されている。こうした考え方は、2015年に国連で採択されたSDGsの前文にある「すべての人間が豊かで満たされた生活を享受できること」「公正かつ包括的な社会を育んでいくこと」につながる。

 NECはこの20年の困難な時期を経て創立当初の原点に戻って、情報インフラの提供で社会の進歩に貢献する道を選んだ。今、世界は新型コロナウィルスによるパンデミックと戦いながら、コロナ後の新しい世界を目指して変革を進めることが求められている。NECは長年培った通信とコンピュータの技術で新しい行動様式を実現し、パンデミックにも強い社会の実現に貢献するだろう。NECがこれからも住友グループの中で他社とは少し違った存在であり続けることは、住友グループの多様性のある発展を生み出す原動力になるだろう。NECは技術を大切に育ててきた住友グループ各社の中にあって、基盤的な技術であるICTの技術を深堀してきた。顔認証をはじめ世界でもダントツの技術が住友グループ各社にとってもイノベーションを実現するカギになることを期待して筆を置きたい。

(日本電気株式会社名誉顧問)
住友史料叢書「月報」35号 [2021年01月20日刊行] 
※執筆者の役職は刊行時のものです。