半世紀近く前になるが、筆者が財閥史研究に着手して間も無く、三井文庫の先輩である加藤幸三郎、松元宏の両氏にお願いして、三井財閥史研究会を組織してもらい、その後すぐに比較財閥史研究会となり、多くの財閥史研究者が参加した。定期的に研究会が実施され、多様な研究報告がなされた。その中で、特定分野の小サークルとして麻島昭一氏中心の金融部会が設けられ、私もそれに参加させて頂いた。麻島氏は、金融論・金融史の研究業績に加え、部外者には閲覧ができなかった住友財閥の内部資料を駆使した研究成果を『戦間期住友財閥経営史』(東京大学出版会、1983年)として出版された。内部資料を駆使した本格的な住友財閥史の嚆矢である。麻島氏との出会いにより、その著作を熟読した思い出がある。
その著作の中で、住友が商事会社設立を回避した点にも触れている。設立計画は1919年に具体化したが、欧米出張から帰朝した鈴木馬左也(同19年3月~20年1月出張)の反対で未達成に終わった。住友の商事会社進出回避については、様々な見解がある。同書の中で、氏はそれらの設立回避の説を①家憲の精神である〈浮利を追わず〉と結びつけた説、②財閥内生産物に商業活動を限定した政策決定重視説、③人材不足説、に分類した。それらを吟味し、維新後の各時期の経営指導者だった広瀬宰平、伊庭貞剛の言動や住友事業経営の実態さらに住友内部から設立計画が出されたことなどから、商事活動への進出が禁止されていた訳ではないとして、①、②の説を批判した。説得力がある説は、人材不足説だとしている。
設立計画の推移については、山本一雄『住友本社経営史』(京都大学学術出版会、2010年)が詳しい。同書では、設立推進の事情は、大戦好況と古河、三菱、久原などの商社設立(1917、18年)の影響であり、鈴木馬左也の反対により設立が回避された、とする。それでは何故鈴木は反対したのか、そこが注目される。山本は、主として鈴木の国家的役割を重視する経営哲学にあるとする。三井、三菱が進出している事業に、住友が進出する必要性はない、と。先の麻島説とは異なっている。
鈴木は、欧米出張中に住友銀行ニューヨーク出張所主任大島堅造(のち同行専務取締役)の設立反対意見を聞き、上海洋行支配人松村松次郎の賛成意見を聞いて帰国している。筆者が注目したのは、大島の反対論である。大島は、人材豊富な三井物産でも失敗することがある、として設立に反対している。金融畑の大島は、大戦後の景気後退期に入った米国所在の企業経営の実情を収集していたと思われる。三井物産の経営状況も把握し、それを詳しく鈴木に伝えたと推測される。それでは、当時の三井物産の海外の経営状況はどうだったのか、それを以下見てみよう。
米国国立公文書館所蔵の接収文書により、三井物産在米支店の詳しい経営状況が明らかにされている。ニューヨーク支店では、1918年度に大豆油取引だけで800万ドルを上回る損失を出し、1917・18年度には、同店とその大豆油取引を引継いだシアトル店の損失は1,457万ドル強(3千万円程)の巨額であった。石田礼助(当時シアトル在勤、のち常務取締役)は「ニューヨーク店では一挙に3千万円以上の損を出してしまった」(石田『いいたいほうだい』日本経済新聞社、1969年)と回想している。三井物産の純益金が1915年度705万円、17年度3,219万円であったことをみれば、その損失の巨額さが判る。金属やゴム取引でも損失している。1919年度には綿花部ダラス支部の676万円損のほか、マルセーユ派出員、穀肥部ロンドン支部、上海、漢口両支店、穀肥部香港支部など海外支店・支部でも次々に多額の損失を計上している。
鈴木の欧米出張の時期は、大戦期の好況から一転して大戦終了による著しい景気後退の時期である。商事会社設立が推し進められていた大戦期後半とは経済状態が大きく異なっていた。外遊中に商事会社設立の賛否を聴いている点を見れば、当初から反対であったとは考えにくい。門外漢の推測に過ぎないが、人材不足説も経営哲学説(国家への貢献説)も、設立回避の判断に結果として重要な要素となったであろうが、当時の鈴木の設立回避の判断に最も大きな影響を与えたのは、三井物産の失敗を引合いに出した大島堅造の反対論と景気後退ではないだろうか。先人の研究に敬意を表しつつ、そんなことを思った次第である。
(名古屋大学名誉教授)
住友史料叢書「月報」38号 [2025年12月20日刊行]
※執筆者の役職は刊行時のものです。
住友の商事会社設立計画と三井
事業は人なり-住友に受け継がれる精神